■正当浪花茶利私的考察(吉田玉男の芸 ― その6)

6.蛇足を恐れずに厚顔無恥

ほんとにしっかりと学びたかった。もっともっと早く出会って、この天才の万分の一でも身につけたかった。そうすればもう少しはもてたに違いない。もう少しは幸せになれたに違いはなかったろうに、悔やまれるばかりだ。今とすれば、ただ楽屋で日がな一日、話を聞きつつあの笑いを味わいたいものだ。不謹慎でわがままかもしれないが、舞台で文楽を観るよりも楽屋で会話を楽しめることができたら幸せに違いないと心底思ってしまう。
この天才は、きっと文楽でなかったら落語でも人間国宝になっていたに違いない(そうすると米朝師匠は国宝枠からはみ出てしまってなれていなかったかもしれないなぁ)し、その高座は、快い緊張と底抜けの笑いで満ちあふれているであろう。
ハッ!―― ここで突然暗転・暗然

(こんなこと書いていていいのだろうか? という、千丈の谷に架けられた細い吊り橋の揺らぎに似た不安がよ過ぎる。果たして人間国宝不敬罪で訴えられはしないだろうか? 公務営業妨害で国立文楽劇場から所払いされないだろうか? ちょっちょっと待て、そうや、この部分はきょうのお昼に偶然初恋のひと女に出会ってやな有頂天になってやな心がときめいてしまってやな、ほんで夜は夜で飲みすぎてやな異世界のハイになってしまって夢の中で何がなんやら分からんうちにこれを書いてる、ちゅうことにしよ。そうやそういうことにしてしまお。ちょっちょっちょっと待てまてまってぇーな、こんなんやと全然説得力があれへんがな。どうしよどうしよほんまに、どうしよういいっぽんさらしにまいいて・・・とウロが来て目の前が真っ暗くらのくらになり、後悔と慙愧の奈落の底へスピード感を喪失しながら忠兵衛の羽織のように落ちて行く私であったのだ―)
と、と、とにかく仁鶴の三角で、おあとがよろしいようで。
―― チョン。

 <・・・ その5-2|了

2007/10/09 Tue 13:27 | 文楽は遠くなりにけり | トラックバック:0 | コメント:0

■正当浪花茶利私的考察(吉田玉男の芸 ― その5-2)

さて「言葉」。
これが又、感心の坩堝<るつぼ>。
レトリックのないシンプルな言葉が、今そこにあるさり気ない言葉が本当に良い。全くと言って奇を衒<てら>わないのだ。だからこそ誰でも笑える。笑いがシンプルに大きくなるのだ。しかも安直な手法としてのしょうもない「駄洒落」が全くと言って無いのだ。それがとても素晴らしい。厳選吟味された言葉には無駄が無いのだ。ストレートでシンプルな「言葉」は、合理的な考え方に基いたものに違いないし、これは動きに無駄のないシンプルな人形の振りにも繋がっているのだろうか、そうに違いない。

そして「演出」。
すごいですねいいですね。
「ワシャ知らん」の顔が薬味となっている。突き放した世界に鎮座遊ばすようなこの澄まし顔が笑いの言葉との間に大きなギャップを生起せしめることで更に笑いを増幅させる演出装置となっているだけでなく、笑いを突き放すことで自らがのめり込まないべたべたさのないすっきりした笑いへとレベルアップさせている。この「笑い=客」が主役であるという認識の徹底とその認識から自生する「喜んでいただきたい、楽しんでいただきたい」と言うエンターテインメント魂は、飽くまでも「人形=客」が主役であるという黒衣の顔と同質同根のものに違いない。
加えて、笑いを取りにいかない、受けを狙いにいかない、己の技巧・自慢を押し付けにいかない「無私自然<じねん>」の様が、笑いを爽やかなものにしている。そこには「自己中心」の考えがなく、「相手(人形とお客)中心」の心がある。主役は自分ではなく「お客様であり、お客様の観に来られた人形である」という主役に奉仕する黒衣の性根である。笑いを取りにいくと言う無理(下手な駄洒落・ダジャレのための駄洒落)が無いから、嫌味も臭味もしつこさも無いさらりとした調子の高い良質の笑いが得られるのだ。

奇を衒わない、無理のない演出を十全に活かす「切り返しのうまさ(話頭を自然にそこへ向ける技)」、歯切れの良い「茶々入れ」、天然ボケのような「混ぜかえし」・・・
嗚呼、ほんまにナンもカも素晴らしいこっちゃ。
さて、これら「間」「言葉」「演出」。
この「三要素」は文楽の修行で培ったのか知らん?
それとも、天賦の才? と言うよりも正当大阪人の「地」(屹度そうに違いないと私は密かに思っている)かしらん。
少年時代にしっかりと培った伝統的正当的な「浪花の茶利気質」がバックボーンにあるに違いない。否、今であっても多分に「茶利っ子」なのだ。今もあの日の少年時代のままに違いないのだ。とすれば今も子供のままなのだ。

 <・・・ その5-1| その6 ・・・>

2007/10/08 Mon 15:27 | 文楽は遠くなりにけり | トラックバック:0 | コメント:0

■正当浪花茶利私的考察(吉田玉男の芸 ― その5-1)

5.三つの要素について少考してみる

一言で言えば、「間」「言葉」「演技」の三つの要素が干渉し合うことなくお互いがお互いをしっかりとバランスよく支援し合ってその機能を相乗的に十全に活かしている。それは我々の健康に不可欠の必須栄養素のミネラルの「カルシウム」「マグネシウム」「リン」のチームワークに似ている。カルシウム、マグネシウム、リンは、血中において「二:一:二」の均衡を保ってこそその機能を初めてパーフェクトに為すと言う。
例えば、リン。
リンがカルシュウム以上に摂取されると相対的にカルシウム不足に陥り摂食によってカルシウムが補填されない限り生体の化学は歯や骨からカルシウムを溶出し血中へと回してしまうと言うのだ。カルシウム不足は必然的にマグネシウム不足のことであり、これはまさしく一つの栄養素が突出したり不足したりすると相対的に他の二栄養素がダメージを受けるバランスとチームワークの三位一体。
この玄妙の三位一体が自然天然の笑いを創り出していると言える。
先ずは「間」。
この「間」がたまらない。
なんとも言えない絶妙の「間」が全ての土台を成している。ここで言う「間」は、言葉<ネタ>の使い所(言葉を出すタイミング)とその言葉を発する呼吸の置き方の二つの「間」を言うのだがこれが、上手い。長年培った人形を遣う「間」に通じているのだろうか。この場面ではこれしかない的確に選択された「言葉(人形では振り)」と、その「言葉」を最大限に活かすための、即ち人々に聞き耳を立たせる(目を引かさせる)ための「呼吸(間)」の置き方、それはそれは感服させられるばかりであり、参ってしまう。

 <・・・ その4-2| その5-2 ・・・>


2007/10/06 Sat 12:22 | 文楽は遠くなりにけり | トラックバック:0 | コメント:0

■正当浪花茶利私的考察(吉田玉男の芸 ― その4-2)

嗚呼<ああ>、此の人にもっと、もっともっと、もっと早く邂逅することができていたら、私が物心ついて以来悩み続けてきた私の致命的な欠陥である口下手は、もっとマシになっていたのではないか。精神的SMの愛憎と、嫉妬と見栄とに塗<まみ>れた金銭と、陥穽を背に足下<そっか>を探り合う駆引きと、運不運の分水嶺とに満ち溢れた「生活<くらし>」に追われ追われ遥か彼方に忘れ去られて了った私の茶利的笑い経験も、屹度二倍三倍になっていたに違いない。随分と本当に勿体ないことをしたと悔やみ乍らも、否この話の「藝」の秘訣を詳細に解き明かすことで私同様に口下手で苦悶する世間の人々に救いの一条の光明を照らすことが出来ればと、拙い一文を書き始めたが、もとより生来の口下手、「ウッチャンなんじゃこれは」と言う所多々あるのは当然必然、そこはご容赦ご海容していただければ幸いと念じるばかりであった。
「ちゃり」。
どう説明すれば好いのだろうか。
「かるふざけ」「ちょっとしたボケ」「ちょけ」「ちゃちゃいれ」・・・。
それは軽妙洒脱でありながら人生の本質をカリカチュアライズしてしまう浪花の俄的「侏儒の言葉」。さて、私なりの話「藝」についてひけらかしの言の葉を書き連ねばならない。何故ならそれがこの小文の目的なのだから。

 <・・・ その4-1| その5-1 ・・・>


2007/10/04 Thu 10:55 | 文楽は遠くなりにけり | トラックバック:0 | コメント:0

■正当浪花茶利私的考察(吉田玉男の芸 ― その4-1)

4.ちゃりとしての「藝」がそこにはあった

貴重な紙幅は私の無意味な饒舌に無闇に費やされていく。
私は一条の慙愧を背筋に氷のように走らせ乍ら先を急ぐ。
余りにも長すぎる前振りはいつも言い分けだけで生きている私自身に外ならない。
私は決意する、端的に簡潔に語るべきだと。
片岡我當氏との対談は、歌舞伎と文楽との共通点と相違点とを語り合い乍ら軽妙なNHKのアナウンサーの進行で進む。しかしその詳細を語るのは此處での役割ではない。記すべきことは、私を驚嘆感激心酔泡沫にさせた「話藝」のことであり、その拙い私的考察に外ならない。
一言で言えば、それはあの懐かしい「茶利」であった。
「茶利―ちゃり」。
あの確かに貧しかったかもしれないが何故か今思えば豊かすぎた思い出の充実の日々に必ず在った「ちゃり」。
その茶利が今ここに洗練され、しかも芸術されてあるではないか。

 <・・・ その3| その4-2 ・・・>

2007/09/30 Sun 10:50 | 文楽は遠くなりにけり | トラックバック:0 | コメント:0

■正当浪花茶利私的考察(吉田玉男の芸 ― その3)

3.静かな感動が心地酔い充足を満たすとき

私はその頃、一人の、優しい浪花言葉の背後に余人を許さない毅然且つ峻烈な性根を屹立させている古美人の頼りない囚人<めしゅうど>となり、間断ない指示に頓珍漢な働きで応えている許りであったから、腑甲斐なさと少しの疲れを感じていたので、再び眠りの小船を漕ぎ出す筈であった。そう、「筈」であった。しかし、全てが終ってみればそこには、薄い頭頂部とは対照的に分厚い肉襦袢に包まれた私の躰の内を静かにそしてしっかりとした力強さで或る感動が横溢し、えも言われぬ充実感が濃密に広がる中、静かにゆっくりとスパイラルを描き乍ら酔い始めた私の精神が在る許りであった。
此の方は、本当に人形遣いなのか。
此の方は、本当は噺家ではないのか。
此の方こそ、あの八代目桂文楽を継ぐべき初代国立文楽ではないのか。
酔いに痺れた私の言語を司る左脳は、正常さを喪ないただ混沌と愚鈍とうろん胡乱さの中を彷徨い乍ら妄言<ぼうげん>が泡沫<うたかた>の如く吉田兼好するのであった。
そしてその方の御名は、人間国宝「吉田玉男」。

 <・・・ その2| その4-1 ・・・>

2007/09/28 Fri 08:14 | 文楽は遠くなりにけり | トラックバック:0 | コメント:0

■正当浪花茶利私的考察(吉田玉男の芸 ― その2)

2.事の始めはいつもと変わらぬ秋の夜

遠い日のときめきも新しいロマンスもない秋の深まりつつあると或る夜、中年と呼ばれるに相応しい体躯と頭部とを有ち併せた私は、初めて国立文楽劇場の小ホールに腰を下ろした。これから国立文楽劇場の「友の会」の催し物が始まる筈であり、私は、何れ心地良い眠りに、標準以上に貫禄の有る後悔はあっても反省のない肉塊を委ねる筈であった。案の定、懐かしのビデオフィルムが薄暗がりの空間を小波のように満たす不統一で幽かなざわめきを無視して映し出されると、待ち侘びたように私は眠りの浅瀬へと静かに辷り込んだ。やがて、時間間際に驅込んだツケが尿意という形で顕われた尿道の短い私は、人工的に醸成された静謐さを壊さないように何故か引け目を感じ乍らできるだけ音を殺しつつトイレへと忍び出た。
快い放出感を後に、まるで新米の石川どら右衛門のように薄暗闇の内へ復った私を待っていたのは、座った途端のインターミッションであった。パッとホール内一杯に満溢れた黄色光と共に弾けたような喧噪が始まり、人々の動きが人いきれに澱んだ空気をドアの外へ押し出した。奇妙な空間に巻込まれたように取残された私は、舞台の緞帳の一点に視線を固定させることで辛うじて自分自身の存在を感じていた。やがてこの緞帳が上がれば、そこに一人の、しゃべくりと言うよりも話術を「藝」までに昇華させた一人の天才が現れるとは勿論知る筈もなかった。

 <・・・ その1| その3 ・・・>

2007/09/26 Wed 19:20 | 文楽は遠くなりにけり | トラックバック:0 | コメント:0

■正当浪花茶利私的考察(吉田玉男の芸 ― その1)

1.先ずは拙文の弁明とお願い

このしゃべくりの妙は、一体なんだ ―― 。
すごいスゴ過ぎるではないか。
生来的に具えた天性とも言える「間」。
機知機略に富んだそしてさりげない「言葉」。
計算され尽くされた無駄のない「演出」。
どれもがすごい。若しこれらが研鑚研磨された「技藝」でないとすれば、天然ボケの極致かしらん。兎にも角にも、この一人の天才の話術話藝の秘訣を考察してみることは、屹度、無駄ではない ―― 。
その思いが、この拙文を書かせたに違いないと独りごちつつ、取敢えずは我慢の欠伸をご同伴の上、一読していただければ幸甚です。

| その2 ・・・>

2007/09/25 Tue 08:44 | 文楽は遠くなりにけり | トラックバック:0 | コメント:0

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